らくだの足あと 5歩目 2024.9.4

棚田の草刈りなどあり、水曜日を大幅に過ぎました。。山里で生活を始めて10年。計画通りに行くことの方が少なく、それがつまり生活なのかな、と思ったり。本の話は、仮想新刊本本棚というのをやってみます。
らくだ舎 2024.09.06
誰でも

らくだの足あとって?

だいたい週1回、いま考えていることややっていることなどをテキストに起こして、近況を報告する手紙のようにお伝えするニュースレターです。そのほか、本や本屋にまつわること、お知らせなどもお伝えしています。

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目次

  • 山里にきて10年が経った

  • 仮想新刊本本棚

  • ご案内的なこといろいろ

***

山里にきて10年、いま考えること

地域、生活という「土壌のなか」で

7月で色川に越してきて、多分10年が経った。

その間に、変わったこともあれば、まったく変わらないこともあり、不思議な感覚だけれど、つねに「地域」あるいは「生活」という領域内(それを土壌と呼ぶことにする)に身を置き続けている。そんな感覚で、その時間の多くを生きてきた。

生活という言葉をここに当てるのはちょっと違うかもしれないのだが、例えば東京にいたとき、朝から晩まで仕事をしていて、たまの休日には渋谷や新宿に出かけ、人と会ったり、ほしいと思わされたものを買ったりしていたあの時期を、生活という領域内に身を置いていたか?と聞かれると、ちょっと疑問というか、違うような気がしている。あれは、「労働」という領域に身を置き続けていたのは?と思うが、どうだろう、違うかもしれない。暫定的にだが、生きていくことそのものに重きを置く姿勢のことを、ここでは「生活」とよび、色川での暮らしは確かにそれだと思う。

家のまえで育てていたかぼちゃは猿にほとんど取られた。タネとか耕すといった言葉だけが踊らないようにしたい。実際の野良仕事は奥が深く、簡単には語れない。実際に自分でやってみる、という気概は大切な気がしている

家のまえで育てていたかぼちゃは猿にほとんど取られた。タネとか耕すといった言葉だけが踊らないようにしたい。実際の野良仕事は奥が深く、簡単には語れない。実際に自分でやってみる、という気概は大切な気がしている

「土壌」という表現は、もちろん土に近い生活をしているせいもあるけれど、生活のふとした瞬間に、たとえば薪を拾い集めるとき、その薪で火を焚き灰を土に還すとき、いただいた米や野菜を食べるとき、糞尿を土に排出したとき、自分がこの環境下で生きる微生物のように思えてきて、自然と湧き上がってきたように思う。

人の営みは、分解し排出するだけでなく、思考や体験、他者との交わり、種々の活動が原動力となって新たな「タネ」を生み出す。そのタネは運が良ければ「土壌」に植えられ、やがて芽吹いて生長したり、そのまま土に還っていったりする。

場所の運営をしているとこの感覚を強く感じる時がある。

また、こんなふうに考えていくと、人の影響など、結局そうしたサイクルの一役、補助的な役割でしかない、そんな気分になる時もある。無理に大きくしようとすると。弊害がとても大きくて、その「無理さ」が環境問題や貧困といった格差、汚職などの不誠実な政治なんかの根本にあるように思う。

つまりは、足るを知る、ということなのかもしれない。ただそれは、現状に満足するとか出る杭は打たれるみたいな精神の方向性ではなくて、どちらかといえば精一杯後世にとって良いと思える思想を掲げて(タネの生長を願って)、精一杯動き続ける(土壌を耕し続ける)ことなんだろうと思う。

日本のあらゆるところから結構行きづらい場所に身を置き続ける僕たちの姿は、「何がしたいんだろう?」と思われているようにも思う。遠い和歌山にいるにもかかわらず、神奈川や長野や(今度は大阪や松本に行く)に出向くことを、自分たち自身もまだ明確に言葉にできていないような気がする。もしかしたら、死んで何十年かしてから、「あ、こんな意味があったんだね」と解られるものなのかもしれない。

堆積する時間とともに

人それぞれに、目には見えないけれど、生きてきた年月分の時間が堆積している。表層に見えている肉体というよりも、見えない時間の堆積がその人を形づくっていると考えてもいいのではないか? 選択したこと/しなかったこと、直接関係したこと/一見関係ないように見えて影響があること、本人の知識や経験みたいな範疇を超えた種々内外の要素を身にまとい(年々身体が重くなるのは体力低下のせいばかりではないのかもしれない)、僕たちは生活を続けている。

こんなふうに、時間を、「諸行無常」のように一瞬一瞬で流れゆくものと捉えるよりは、堆積し続けるもの(変化する、という意味では同じだけれど、瞬間で別のものになっていくというよりは、堆積したものとの相関関係で表出する部分が変化している)、と考える方が、僕はしっくりくる。

いま感じている心地よさの根底にあるもの

この文章を午前中棚田で草刈りした後に書いている。身体を動かせてけっこう気持ちよい草刈りのあとは、文章も気持ちよく書けたりする。書くことは案外身体性を伴うというか、身体の状態に色濃く影響を受ける。若い時分はそんなことわからなかったが(若い時は体力があったから表出していなかっただけかもしれない)、もしかしたらそもそも山の中に来なければ一生わからなかった感覚かもしれないし、色川に移り住む前に暮らしていた東京の生活があったからそう感じているのかもしれないし、明確に要因を突き詰めることは多分できない。

よく実っている棚田を守ろう会の稲。およそ半年かけて育つ稲。年に1回しか試行できない稲作。その時間の流れの中にあるもの

よく実っている棚田を守ろう会の稲。およそ半年かけて育つ稲。年に1回しか試行できない稲作。その時間の流れの中にあるもの

取るに足らない、かけがえのない存在

時間をもう少しだけ考えてみたときに、誰かにとってはとてつもなく取るに足らない1秒が、別の角度から照射されると(たとえば、時を経て思い返すような本人のなかでの時間軸の変化、他者からみるなどの主観/客観の視点移動とか)、かけがえのない1秒になる、ということはたくさんある。

この1秒は、いろんな言葉に置き換えられる。

「死んでしまえば無くなる有機体(肉体)」は一方で「生きた時間を堆積したかけがえのないそれぞれの器」とも言える。

「とるに足らない全人類のなかの一個体」は一方で「誰かにとって、代えのきかない唯一無二の存在」とも言える。

その両義性を噛み締めることに目が向くようになったのは、山里に来たことと無関係ではない。

のちのち芽吹くかもしれないタネをまいていく

こうして文章を書いていくことになんの意味があるのかまだ分かりきっていないけれど、出帆室を始めたこともニュースレターを書き出したことも、「地域」という内に向けていた眼差しを外に向け始め「交換」を重ねていこう気持ちが芽生えたからで、この感覚は、10年かけて耕した「土壌」のなかで生まれた「タネ」なんだろうと思う。

タネが芽吹くかわからないけれど、生長を祈る気持ちが、いまはある。

これからどんな時間が堆積していったとしても、土壌を耕し続ける存在でありたいし、耕し続ける人・土地に身を置き続けていけたらと願っている。

(テキストちばさとし)

***

仮想新刊本本棚

前置き 「これから出る本」を全部見るようにした

具体的な時期は忘れてしまったけれど(本屋を始めて4年くらい経った頃からか?)、「これから出る本」いわゆる新刊情報を全部見るようにした。大体向こう1ヶ月に出版される全ての本、僕が使っているツールは検索時に特定のジャンルを除けない(というか方法がわからない)ので、アマゾンに登録された電子書生を含む全ての本ということになる。ここにアマゾンに登録していない出版社の本屋やリトルプレス・ZINEは含まれない。例えば僕たちが作った『二弐に2』も、Amazonには登録していないので出てこなかったはずだ。

新刊本を仕入れる時の考え方や変化

らくだ舎での本の仕入れ方は、ほとんど全ての本が買い切りと言われる形で(条件がゆるく委託で取引いただける出版社や個人の方は本当にありがたい)、先に買い取っているため、気になる本を全て仕入れて反応を伺う、みたいなことは物理的にも資金的にもできない。

必然的に「これは入れたい」と個人的に強く思う本、風雪に耐えうる(と感じられる)本、この時代に必要だと思う本、とても当たり前だけれど置くことの必然性が高いと思える本だけを仕入れていくことになり、日々出版されている膨大な本の情報を網羅できたとしても、あまり意味がないというか、らくだ舎にとってはtoo machな情報だと考えてきた。

新刊情報に目を通し始めるまでは、基本的にSNSで信頼できると感じる本屋さんや書評家、出版社や書き手のSNSの情報を逐一掘って仕入れていた。

だけれど、

  • どうしても余分な情報が目に入る(僕はその誘惑に乗ってしまいがちなので際限がない)

  • 仕入れる数や頻度に対する情報の取り方の食い合わせがあまり良くない感じがしていた

  • フィルターバブルの強化にもつながってしまう危惧

そんな理由から、最善ではなさそうな感じがしていた。(いまでもSNSでも本の情報は追い続けている。これはこれで必要だと感じている)

最近の新刊本の棚はこんな感じです。いやー、本が増えました。

最近の新刊本の棚はこんな感じです。いやー、本が増えました。

売れていく本(それはつまりらくだ舎らしいと言えるのかもしれない)の再注文もかなり迷う。売れているということはらくだ舎らしい本とも言える。いま棚にある本は当たり前だが売れていない本なわけでその固定化も怖いし、結果的に起こってしまう棚の先鋭化の兆しも感じていた。それに伴って、自身も予期せぬ新しい本との出会い(ジャンル、著者、出版社)のきっかけをなくしているような気もしていた。

もうひとつ、定期的に本を買ってくれる方々の姿を思い浮かべるようになった。「この本はあの人が手に取るかもしれない」「前回あの本を買っていったな」「へえー、あの人の好きなこの著者がこんな新刊を出すんだ」こうした具体的な顔や姿は、確実に本を選ぶ基準に影響を与えてくれているし、それがフィルターバブルの一部分を防いでくれてもいると思う。この仕入れ方をするならば、SNSを掘っていくやり方はあんまり適していないような気がしてた。

そんな経緯もあって、これから出る本を繁々と眺め始め、それ自体とても面白いと思うようになった。

何が面白いのか?

これから出る本を全部眺めることの面白さをいくつか書いてみる。

  • まったく知らなかった出版社の、まったく知らなかった本と出会える

  • 当たり前だけど、たくさん新刊が出る週や日とそうでない週や日がある

  • いま流行りの書影や本の方向性がなんとなくわかる

  • (3を少し深ぼる感じ)出帆全体の傾向や時代の肌感、みたいなものを感じられる気がする

  • 結果的に、仕入れるべき本が以前より明確になる(仕入れなくていい本がしっかりわかる)

今後、もう少し既刊本のことも知っていきたい。それは古本を知ることにもつながるだろう。大きな海の全貌に少しでも迫ることができれば(あまりにも深く広いけれど)、結果的に自分の湾の位置や特徴、これからできることもわかっていきそうな予感がある。

ニュースレターで試せそうなことがある

これから出る本を眺めていくなかで、「これは仕入れるぞ!」という本はもちろんだけど「良さそうだけど、手に取る人いるかな?」「あんまり知らない著者やジャンルだけど、タイトルからすると面白そう」と、気になる本が増えてきた。すべてを仕入れて手に取ってみるのも、なかなか厳しい。

そのあたりをちょっとでも解消するすべとして、このニュースレターにできることがありそうだなと感じた。不定期で「これから出る気になる本」、そして「らくだ舎で売れた本」も紹介していけば、売れる売れない以前の共有感や高揚をシェアできるかもしれない。

「こんな本が売れるんだ・出るんだ」とAmazonのレコメンドなんかとはまたちょっと違った新しい本を知るきっかけになったり、実際に予約もできたり、僕たちとのコミュニケーションの端緒となったり…。ちょっと違うかもしれないが、図書館の棚にある「返ってきたばかりの本棚」みたいな存在?そんなふうに育ったらいいのでは?といまは考えている。

紹介した本で(もちろん、そうでなくても)「この本欲しい」は、メールでもInstagramのDMでも気軽にご連絡ください。面白そうみたいな感想でも、何か反応があると嬉しいです。

ちなみに、新刊チェックは、幕張にある本屋lighthouseがsubstackで配信しているニュースレターから着想をいただいています。こちらはとても面白いです。もしよければご登録ください。

これから出る本

(各タイトルのリンク先は、各出版社のホームページです)

うし、ぶた、とり、しか、いのしし、やぎにひつじ。捌いたことがない、あるいはその現場に行ったことがない、というのだと、ぶた、やぎ、ひつじあたりか。僕だけかもしれないが、案外ぶたは身近なようであんまりそうでもない家畜な気がする。そういう意味でもとても貴重な記録ではないか?この本が、幻戯書房から出るというのもとても面白い。出版に至る経緯や今後の活動にもとても興味が湧いたし、いつか色川にも話をしにきてもらえたら嬉しいなと思っている方の一人。読んでみて、また感想を書きたい。

人とはぐれてしまった時に感じる、あのどうしようもない心許なさはなんなんだろう?それが、子供でましてやはぐれたのが親だったとしたら。子供がそんな状態になったら、どんな気持ちになってしまうだろうと、親目線を隠せない。岩波書店の絵本は、良作が多い印象。著者のエーヴァ・リンドストロムさんは、スウェーデンの方。略歴を見ると、2022年にアストリッド・リンドグレーン記念文学賞(ALMA)という賞を受賞されているそうです。

翻訳をされているよこのななさんの経歴にある、図書館勤務などを経て翻訳家に、という言葉も気になります。

屋号に掲げた「らくだ」に大きな意味はない(強いて言えば、僕の顔がラクダに似ているから、そしてらくだのようにゆっくりとでも確かに一歩一歩歩いていく見たいなイメージはあるが、そんな程度)けれど、掲げた以上らくだのことは気になるようになった。

版元ホームページよりラクダに関する膨大な知識を網羅し、ラクダとアラブ文化の実態を描き出す。

その言葉に違わない、22章展開。ラクダの成長過程のような生態学の話から、らくだで税を払う、といった風習や文化についてまで、まさに膨大な知識を網羅した1冊。らくだ好きもそうでない人も、これは絶対楽しめるやつ。

ある昭和史-自分史の試み (中公文庫, い41-5)9/19 中央公論新社

毎日出版文化賞受賞。

なぜこの本? 色川大吉先生の「色川姓」は、この土地に由来することが、どうやら確からしいから、というのが1つ。そして、個々人の小さな歴史に焦点を当てた本が増えてきている。たとえば「まさかこの本がこんなに売れるとは!」と記憶に新しい『東京の生活史』(この機会に改めて特設ページをよく読み、聞き手を見ると著名な方も多く参加されており、筑摩書房の力の入れようもあって、話題になったのはきちんと理由があるのだなと納得した)、その源流とでもいうのか、上流の方に色川大吉先生がいるような気がしている。

お会いすることは叶わなかったが、こちらに足をはこぶこともご存命の時に地元の方とやりとりされていたらしい。色川武大、色川大吉、今後深めていきたいと思う僕にとっては、必読の1冊。

直接関係ないけれど、最近読んだ本。色川武大と伊集院静の交流を書いた1編を読みたくて。期せずして「200年」というタイトルのエッセイも見つけて読む。二弐に2を構想しはじめてから、200年という単語にとても敏感になった

直接関係ないけれど、最近読んだ本。色川武大と伊集院静の交流を書いた1編を読みたくて。期せずして「200年」というタイトルのエッセイも見つけて読む。二弐に2を構想しはじめてから、200年という単語にとても敏感になった

今回は以上。

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ご案内的なこといろいろ

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