らくだの足あと4歩目 2024.8.29
目次
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日々の雑感など
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タイムスリップするなら、きっと今日だと思った話
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本のことを少しだけ
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ご案内的なこといろいろ
日々の雑感など
4週目に入り、登録してくれた方がおよそ25人。ありがとうございます。
以前も書いたように、今後、らくだ舎の状況をお金など具体的な数字も伝えていく予定です。まずは登録してくださっている方の数をお伝えしていこうかなと開示します。
付き合いのある和歌山大学の先生が、ある時とある場で企業や地域経営における成長を何で測るべきかを問われたとき、「情報の開示」と答えた、といった話を聞きました。お酒の席だったのであんまり詳細を覚えていませんが、僕はその言葉を聞いて、「そうだよな」と思った記憶があります。
それは、ひとえに信頼を計る一つの指標だと思うからです。
情報を開示することは、もちろん難しいところがたくさんあります。
あったことを詳らかにダダ漏れさせれば良いというわけではないと思うし、(差し出す内容、ツール、タイミング、相手をきちんと考える)
そこにかける時間や労力もかければいいというものでもない。
そして実際にどう受け手の捉えられるかはまた別の問題であり、炎上のような問題もはらみます。
ただ、問題を恐れてうちに情報をしまいこむ癖がつくと、それはより大きな(そしてより見えづらい)障害になりうる。時代に左右される部分も多いのかな?と推測するので、現代においてはそうであることを、理解しておくべきだと思うし、互いに目配せをし合えたらいいなと。
もちろん、情報の差し出し方やツールはとても難しくて、それは年々難易度が高くなっています。SNSから少し距離を置こうとしているのも、ニュースレターを始めてみたののも、その点を感じての試行錯誤です。
補足
数字の開示みたいな話とちょっとズレてしまうのですが、何事においても声を上げられない立場にあったり、政治・宗教・所属団体などによる縛りがあったり、ある物事に対して意見や声明を出しづらい方がいることは承知しているし、尊重したいです。その方々に強制する意図はまったくありません。
白黒つけないグレーゾーン、あわい、振り子のようにあっちとこっちを行き来する(意見を変える)ことも、どちらかといえば積極的に肯定する立場にいます。
ただ、以前Twitterで拝見して本当にそうだなと思った投稿がありました。

子どもに向けた本をつくっていて、「子どもを殺すな」って言えないのはなぜですか。「子どもを殺すな」って言えない事情ってなんですか
児童書の出版社、編集者のみなさん声をあげてくれませんか。もう1年経ちそうです
#FreePalesitne
あるいはインボイス制度。
反対も賛成も表明しない沈黙は、基本的に大きな流れに賛同している、というメッセージをときに与えてしまう。「意見を出していないからと言って賛成ではない」というのはもちろんそうですし、何も「断固反対!」のように声高に叫ぶ必要もまた、必ずしもないと思っています。
けれども、「自分はこう考えていますよ、少なくとも僕は賛成できませんよ」というのを、個人にせよ団体にせよ、とくに大きな流れに対しては、明確に表明してもいいんじゃないか?と思います。
いま「戦争反対」「人を殺さないで」という声を挙げられないのだとしたら、それは何かがおかしくて、そのおかしさを自覚するところから始まるのかもしれません。
地方に移ってからなんとなく感じることが増えた気がしている、意見を言うこと自体が不遜なこと、和を乱すこと、と捉えられてしまうケースもあるように思います。仮に地域の役員になっていたりすると、意見を求められることも多いのですが、そこでごにょごにょといいも悪いも言わない時期もありました。意見を述べる分だけ会議は長く、まとまりづらく、収束が難しくなるのは見えているから。
いまでも、意見の表明は都度躊躇します。それでも、何も意見を表明しないことは暗黙の賛同になってしまうと思い、賛成でも反対でも、そこにいる責任として意見の提示をできる範囲ですが、やるようになりました。
ちょっと話がそれました。何を伝えたかったのかというと、登録してくれた数を公開するのは、そんな理由からです。
※数の多寡を誇示したり卑下したり評価したい気持ちはまるでありません。目標読者数や開封率、PV率なんかも勝手に情報を提示してくれますが、「ふーん」くらいなものです。その先には、登録してくれた一人一人の個人がいるだけです。(といいながら、登録してくれる人が増えるのはとても嬉しいことですし、励みになります。開封率もまったく気にならないので、気持ちが乗らなければ開かずにスルーしたり、ゴミ箱に捨てちゃって大丈夫です。不要なデータの保持は環境にもよくないので)
情報はメールアドレスだけで大丈夫。勝手に費用が発生したり、情報が抜き取られたりすることもありません。ブラウザで見に行かなくとも、毎週メールボックスに届くようになりますので、手間もありませんし、解除も簡単です。もしよければご登録ください。(txt:ちばさとし)
タイムスリップするなら、きっと今日だと思った話

施餓鬼の祭壇。全て木と板を組んで作る。生米と小さく刻んだなすを混ぜたものが供えられ、長い箸でそれを放るようにする
八月。私の住む小阪区では、二つの寺行事が行われる。十一日に行われる「施餓鬼」と二十三日に行われる「地蔵盆」という行事だ。
注釈を入れると、私たちの暮らす「色川」という地域は、元々はそれぞれが別の村だった九つの集落が集まって構成されている。九つの村から色川郷へ、色川村へ、そして1955年、色川村、那智町、勝浦町、宇久井村の4カ所が合併し、那智勝浦町の色川地区となった。そして私たちは色川地区の中の、小坂区(旧小阪村)に住んでいる。
小阪区は、二〇二四年現在、色川内で最も多く行事の残る区と言われている。その理由はいくつかあると思う。
他の区に比べ、比較的若い地元住民の方が数名(とはいえ、今はもうみなさん七十代半ばに差し掛かっている)住んでいること。その中に、行事を残そうと意識的に動いてきた方がいること。念仏講という、念仏を唱える住民グループが機能していること。移住者の受け入れが比較的遅かったことも、何かしらの貢献をしている可能性はある。
他の区の行事は、日付で決めるやり方から、第何週目の土日、というように、週末に開催するよう変更されているところもある。それは、平日勤めのあるような若い移住者が参加できるよう変更されたと聞く。また、「寺」は基本的は「檀家」によって運営されるため、寺の行事は地元の檀家だけが参加し、移住者は基本的に参加しないという区もある。
小阪区の場合、寺は檀家による運営という基本認識はありつつも、行事として一括りに捉えられ、移住者も参加するのが当たり前になっている。長いこと移住者が1〜3世帯ほどだったので、地域住民が集う場に移住者も入れてくださっている、そんな感覚のように思う。
準備をしてくださるのは地元の方だ。本質的に全くたいしたことはないのに、当日の朝、めんどうだ、という気持ちが1mmもない、ということはない。だが、いざ始まると、総じて行事は良いなと思う。何が良いのか、言葉にするのは難しく、総合的に良いと感じるのだが、今年そのうちの一端を掴んだような気がした。
八月十一日に行われる「施餓鬼」はお盆の行事だ。ご先祖様の供養とともに、この日ばかりは、餓鬼と呼ばれる生前悪さをして餓鬼道に落ちた鬼にも食事を施すという法事である。小阪の寺にすでに主となるお坊さんはおらず、法要の際には臨済宗 妙心寺派 円心寺から住職を呼ぶ。住職が毎年施餓鬼の意味を解説してくれるのだが、その説明によると、無縁仏だったり、虫だったり、生きとし生けるもの全てに施して供養するような気持ちでお参りください、とのこと。
施餓鬼は、初盆の法事でもあり、初盆を迎える地域の人を、地域みんなで供養する行事でもある。施餓鬼としての全体のお経とお参りを行った後に、初盆を迎える故人の位牌、遺影を飾り直し、捧げるお水も換えて、もう一度お経とお参りを行う。その後、小阪念仏講の面々を中心に、みんなで西国三十三ヶ所御詠歌を歌う。(三十三番で終わりかと思いきや、おまけやなんやかんやが加わって、四十番近くある)。歌で三十三ヶ所の寺を巡るこの御詠歌の詠唱は、小阪では葬儀の時にも供養として歌われていたので、祖先供養、初盆供養のために施餓鬼でも歌われるのだろう。最後に、初盆を迎えた遺族の皆さんからの挨拶があり、遺族から地域住民にお礼の振る舞いが行われる。
ここまで書くと予想がつくだろう、この行事は、長い。小阪の行事の中でも長さNo.2か3の行事である。だが、この長さが、私は嫌いではない。こんなにも、「自分」から離れたところに身を置いて、ぽっかりとした時間を過ごすことはなかなかないと思う。その隙間に、何かがある気がするのだ。
施餓鬼の最中、小阪区在住者として最高齢になるであろう、八十代の方がつぶやいた。
「こんなに手厚くしてもらって・・・わたしの時も、こんなんしてもらえるやろか」。
もしかしたらちょっと違っていたかもしれないが、私には、そう聞こえた。
その言葉を聞いた時、なんだか心が震えた。
ああ、この日、この時間に、この寺ではずっと、この行事が繰り返されてきたんだ。そのことが、妙な実感を伴って感じられた。私の知らない、あの人のお父さんやお母さん、もっと前の、この地に住んでいたたくさんの祖先の皆さんが、こうして祈りを捧げ、御詠歌を歌って故人を送り、自分も送られる側になっていく。一年の中のこの日この場所で、延々と繰り返されているひとつとして、今この時が存在している。
上へ上へと立ち昇る線香の煙を眺めながら、ふと、横に横にと流れていく時間の流れの中で、八月十一日のこの日だけ、縦に連なっているイメージが浮かぶ。そして、もしもタイムスリップが起こるなら、きっと今日なんじゃないかと思いついた。縦に連なる時間の中なら、移動することができるかもしれない。立ち昇る煙の中に、過去や未来を視ることができるのかもしれない。
未来。ひとり、またひとりと見送ることになるであろう未来。
施餓鬼をもう辞めよう。そんな話が、いつ出てくるのかわからない。今年、または来年にも、そんな声が挙がるかもしれない。軽はずみなことは言えないが、私は縦の連なりを、絶やしたくはないと思った。余所者の私が、過去のこの地に生きた人たちを、いつもよりも身近に感じられるような気がするこの法事。延々と繰り返されることの中に、死ぬことの受け止めが含まれてくるのかもしれない。
(txt:千葉貴子)
本のことを、少しだけ
個人的な本は、夜寝る前に少しずつ読み進めていくことが多いのだけれど、寝る前には寝る前に適した本がある。先が気になるようなのはなし、こちらを鼓舞してくるようなのもなし。(この前、つい『生き延びるための事務』/坂口恭平(マガジンハウス)を読み始めたら、むくむくとやる気が湧いてきて眠れなくなり困ったことがある)
理想は、
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あんまり何も考えずに文字を追うことそのものがなんとも心地よいと感じられるような本
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あんまり心を揺さぶったりかき乱す内容ではなく、静けさがある本
その意味で、最近読んだ本のなかでは、この2冊がダントツに良かった。

昔は絶対に読めなかったであろう本なのだけど、こんな本たちにじんわりと心を暖めてもらえる瞬間があることが、なんだかとっても嬉しい。歳のせいだろうか。
雪と砂。どちらも硬質なイメージがあり、作品中にもどこかひんやりとした印象が漂っている。暑い夏に読むのに適していると思う。人間の道理とはまったくことなる道理(すらないのかもしれない)で、深々といま立つ場所すら侵食しうるモチーフ。僕には、雪と砂が重なって感じられて、この2冊の予期せぬ共鳴も面白かった。
『砂漠が街に入り込んだ日』グカ・ハン(リトルモア)は、韓国語を母語とするグカ・ハンが、フランスにわたり、フランス語で最初に書いた短編集だという。8つの短編は、曖昧な「私」を一人称に、一続きであるようにも、それぞれが独立した全く別の物語であるようにも読める。時代を超えて、一人の人物が生まれ変わりながら、別の物語を繰り返しているようにも読め、僕はなんとなくこの感覚が肌に合った。
リトルモアのnoteページにグカ・ハンへメールインタビューをした翻訳記事がある(翻訳は原正人さん)。そこで、フランス語で砂漠を意味する「désert(デゼール)」という単語は、「からっぽ」という意味もあると書かれていて(vol2内)、「不在」への抵抗の物語、とも読めるように感じた。明確なあらすじは書きづらいが、図書館などにも入っている可能性の高い本だと思うので、もしよければ手に取ってみてください。
そして、『おわりの雪』。とても寒い街の寓話。雪のなかを歩く描写がとても印象的で、一足一足進むたびに、心がしんと静まり返っていくようで、ただただ美しいと思える。内容は必ずしもいい話ではない(それこそが寓話の真骨頂なのかもしれない)のだけど、不思議とネガティブな気持ちにはならず、本当に雪の道を一歩一歩進むように、読み進められたのが楽しかった。ありそうでなかなかない本だと思う。
白水社の白水uブックスシリーズはとても良い本が多い。とても有名なレーベルとは言えないかもしれないが、高校生や大学生にも気軽に手に取ってほしい気軽さがあるし、読めなくてもいいくらいの感覚で、図書館で借りるよりも買ってじっくり置いておいていいと思う。らくだ舎でも、少しずつラインナップを増やしている。
寝る前に寝転がりながら読みやすい! 判型もさることながら、文字組やフォントによるところも大きい。パッと見は新書づらしているが、とても美しい本。
言い方がとても難しいのだけれど、もし僕が大学生くらいの時にこの本を読み始めていたら、途中で放り出してしまったかもしれない。小説にわかりやすい「意味」や「展開」を求め、何も起こらない(ように見える)ことに苛立ったり、飽きたりしてしまったかもしれない。
ある種の忍耐というか、これまで本を読んできたことで多少ついてきた読書筋とでもいうのか、か弱いけれどちょっとはある筋力に底を支えてもらって、文字を追うことそのものの喜び、どんでん返しやわかりやすいカタルシスがなくとも得られる感動や満足感、をキャッチアップできるようになったようにも思う。
良き読み手とは言い難いし、まだ若い時分は知る由もなかったけれど、そんな感動に出合うことができると、「本を読み続けてきて良かったなあ」と思う。いまその本が面白いと思えなくても、何十年か先、これはいいなあと思えるかもしれない。その時その時の読書体験を成功/失敗みたいに判断せずに、本を読み続けていきたいし、もしこれを若い人が読んでくれていたら、そんなことを伝えたい。(txt:ちばさとし)
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