らくだの足あと3歩目 2024.8.22
目次
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なぜニュースレター?
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住まいの未来、自然と過去への回帰
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今週の、本のことを少しだけ
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ご案内的なこといろいろ
なぜニュースレター?
ある人に、ニュースレターってなに?と聞かれました。(「the Letter」を選んだ理由なんかはまた別の機会にここに書くことにします)
言ってしまえば、メルマガ的なやつです。ただ、ニュースレターとかメルマガとか手垢のついた言葉は説明がしやすい反面、その言葉の持つイメージで固定されてしまう可能性があり、それは嫌だなあと、あんまりそういう言い方はしないようにしています。
らくだ舎としては、
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僕たちの生活や考えを開く「媒介」(のひとつ)
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限られた人に向けて送る「手紙」のようなもの
そんなふうに捉えてもらえたらと思い、書いていきます。
書く内容は変わっていくと思います。いまは、冒頭の貴子の言葉通り、それぞれが交代で長文を書き、僕は本の紹介などをしていきます。おいおい有料部分を作り、そこでもっと突っ込んだ内容(たとえば、現在のらくだ舎のお金の状況について。しっかりとお金や貨幣制度について向き合う必要があると思っているので、その実践の記録など)を書いたりしようかなと思っています。
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住まいの未来、自然と過去への回帰

先日友人たちと初めて「宝竜の滝」に行った。色川の東部にある。涼しくて、空気が気持ちよくて、すっかり気に入ってしまった
一昨日、とある仕事で、建築学科の教授にオンラインでお話をうかがった。
住まいの内外の環境情報を見えるようにすることで、エネルギーを抑えながらも快適に過ごせたり、住移民の健康やいのちを守ることに役立ったりするのでは?という研究について聞くのが主軸のテーマだった。話を聞く中で、共感したり、示唆深いと感じたりすることが多々あり、そのことについて少し書いてみたい。
ひとつは、システムを作る一方で、完璧にコントロールするシステムが大事なのではなくて、人が主体的に住まいに関わることが結局なにより大事なのでは、という考え。
例えとして教授が挙げていたのは、夏場にクーラーをいつまでかけるのか、という問題だ。クーラーをかけていたとしても、夕方に外気温が下がり、クーラーを切って窓を開け放てば充分に涼しいという場合がある。私たちは、時折外気温に気を配り、思考を巡らせ、能動的に動いて窓を開け放つ必要がある。
しかし、機密性を高めるべしと設計され、カーテンを閉めて熱効率を良くしようと意図された部屋にいては、そうした外気温の変化に気づけなくなる。現代の省エネや脱炭素は、技術革新の話になりがちだ。住まいについていうなら、おおよそ、いかに勝手にコントロールしてエネルギーを抑えるか?という方向に技術開発は進んでいると言えるだろう。しかし、人の手を働かせることを前提に、システムはシステムでも、人の行動を助けるためのシステムこそが必要だと思ったのだ、と教授は研究動機を語った。
住まいと人が互いに思い合い、協力し合っているイメージ。鳥瞰図的に、自然の中に位置付けられたものとして、人の生活を眺めているイメージ。それらが、脳裏をよぎった。そんな在り方は、暖かくて幸せで、真っ当だと感じた。
20軒の様々な戸建てで2年ほど実験をした時、教授が出したレポートを見せてもらった。機密性を示す値がものすごく高い(北海道に持って行っても快適に暮らせるような値らしい)家が一軒あったのだが、エネルギー使用量は20軒中10番目くらいだった。あまり省エネになっていないのは、24時間稼働の完璧な空調・冷暖房システムの家だから、とのこと。快適性は確かに高いのだろう。高気密でない家が同じような冷暖房を採用したらもっとエネルギーを消費するのだろう。けれど、周辺の環境から隔絶されたその家の中だけが異空間のように快適である様を想像すると、ゾワゾワと肌が粟立つような感覚がある。
もうひとつ、印象に残ったのは、「いかに壊して、また作るか。帰結するところは過去の知恵と自然素材にある」という話だ。教授は学生の時に、「完全リサイクル住宅」の設計、実験を行う研究室に所属しており、住宅をバラしてまた作ることができるように設計する、という研究に携わっていた。その時、いかに現在の一般的な工法が、後のことを考えていないか、痛感したという。コンクリートや接着剤などを多用し、「今」頑丈に、できるだけ早く作ることを重視する。バラしてまた使う、などということは毛頭考えられていない。完全リサイクル住宅を作ろうとした時、結局頼りになったのは、木や漆喰といった自然素材であり、かつての日本住宅に生かされていた技術だったのだという。

この話を聞いて思い出したのが、昨年訪れたコペンハーゲンで見た、サステナブルなこれからの住宅の在り方をテーマにした実験的展示(たぶん)。日本の様式を取り入れた家が堂々と展示されていた
建築のあり得る未来の姿として、教授は自然素材への回帰を口にした。木や土や石。かつて環境負荷が少なかった時代がある。人間の住宅にもし不要になっても自然に還るだけの、自然のサイクルに組み込まれた素材。木や漆喰の壁は、調湿効果もあり、環境調整にも役立ってくれる。昔に戻すのではないが、自然素材を見直して、今の時代でも使いやすい材料に加工する開発を進めるなどもっとできるのではないか?

これもコペンハーゲンで見た展示。茅葺屋根の技術の応用という感じなのか。モンスターみたいでかわいい。自然素材の様々な工法について解説されていた(ようだ)。あとで翻訳をかけようと思って1年経ってしまった現在・・・

今年2月に行なった我が家での断熱ワークショップの様子。効果は謎の藁断熱。あってもなくてもレベル?という疑いあり。色川住民有志の団体、環境・共生の会で実施
例えばドイツでは、木質繊維の断熱材が普及しているのだという。昨年、我が家は断熱ワークショップの会場となり、断熱が行われた。その時にできるだけ自然素材を使うために奔走していただいたのだが、蓄熱と調湿機能を併せ持つこのような素材は使わなかったし、私は知らなかった。値段的に無理だろうということで、枠組みから外れたのだと思うけれども。
過去の知恵への尊敬、回帰しながら現代へと生かす。私たちの住む山里は、都会的な流れから外れたところにある。自然も過去も、まだ近しいものとして存在している。ここだからこそ、掴みやすい未来がある気がする。
色川には、クーラーなんぞ使わず、昼間は川や滝のそばで過ごすとか、頻繁に行水するとかで涼をとる人もいる。夜は、窓や戸を開け放ち、蚊帳で寝ればよい。私たちの家も、今まさにそうしている。お盆を過ぎ、そして日が暮れれば、山里の涼を存分に感じることができる(野良猫の侵入には悩まされているけれど)。吹き抜ける風の心地よさは、決して人工的に再現できるものではない。湧き上がる心からの幸せが、そこにはあると思う。
ちなみに、私たちは食品を扱うお店のためという言い訳で、今夏は店のクーラーを毎日稼働させている。稼働させるからには利用せねばと言い訳して、営業日以外も店に通い、仕事をしている。山里といえど、真夏の日中の暑さが厳しくなってきたことを思うと、地域のクーリングステーション(こういう言い方があるらしい)は必要なはずだ。喫茶店の営業日は、涼みにやってくる人もいる。営業日以外にどう開いていくか、今夏は考えきれなかったが、来年以降何かしら取り組みたいと思っている。
※インタビュー内容に触れている部分、あくまで私が受け取った話を書いており、教授確認を経ているものではないので、多少間違っている可能性があります。※正式な記事はとあるウェブで9月末に公開予定。またニュースレターでも案内したいと思います。
(txt:千葉貴子)
今週の、本のことを少しだけ
なかなか来れない、という人にできること
気に掛かっているけれど、(らくだ舎に)なかなか来れない、という人の存在を時々聞く。
ありがたいことだと思う一方、これだけ遠い場所にあるのだからそれは当然で、もしそこに心を痛めている人がいたら、「大丈夫ですよ」と伝えたい。辺境も辺境のこの場所には宿泊がほとんど必須と言ってもいいのだけれど、潤沢とはいえない。おすすめの場所は埋まっていることも多く、心苦しい思いをすることもしばしばだ。
話がそれた。
でも、気にかけてくれている人に何か報いたいな、という思いは常々ある。だけれど、それをどういう媒体で、どう伝えられるのか。SNSも役割の一部を果たすけれど、十全ではないなと感じていたのだけど、その隙間を「らくだの足あと」が埋めるような気がしている。
SNSほど匿名性が高くなく、一人ひとりに送るメールほど個別性が高くない。その間にあるような存在として、このあり様には可能性がありそうだ。
例えば、僕は本との出合いは一期一会だと思っている節がある。古本のように、いま目の前にある瞬間に買い求めなければ次があるかわからない、みたいな瞬間の押し引きは新刊本にはない。厳密に言えば、買っておかなければ版元品切れとなり、手に入らなくなる新刊本も少なくないが、新刊本には新刊本なりの一期一会があるような気がしている。
「何度もいろんな書店で目にしていたあの本をふいに手に取り、思わず買い求めてしまった」とか
「思ってもみない本屋で、思ってもみなかった本と出合わされた」とか
「なんかここで買わなきゃいけない気がした」とか
「新聞の広告でピンときて、思わず書店に走った」とかもそうかなと思う。
基本的には、本屋という「場」とセットかな、と考えていて、amazonのおすすめとかはなんとなくその「出合い」の範疇から外れている(あくまでも、僕の感覚では。なぜそう感じるのかあまりうまく言語化できないので、それはまた別の機会に)
サイン本の話
僕はずっとサイン本が好きで、新宿の紀伊國屋にあった(いまもある?)サイン本コーナーや著者のトークイベント後にあるサイン会、もちろん古本でサインを見かけた時もその本を買い求めることが割合多かった。何千と刷られた工業的な本という物体に(実際は一つひとつ違う場合もあって、当時そう感じていたのは浅かったな、と思うのだけれど)命が吹き込まれるようで、自分の一冊になるようで、とても好きだった。
曲がりなりに本屋として本を売るようになったいまも、「サイン本」と言われるとつい内容を見てみたり、多めに注文したりする自分がいる。
僕が思うということは、一定そう思う人もいるのだろう?と思う。
ただ一方で、サイン本みたいなものは、ある種の「希少性」が生まれてしまい、手に入れるための競争に晒されてしまうこともしばしばだ。
予約販売が三秒で完売になる、手に入れたくてもそもそも売っている場所がない、買い求める資金が足りない、忙しくて本屋に足を運べない、単純に知らなったあるいはあとで知った
あげたらキリがないと思うけれど、こうした諸々の不均衡があるし、この希少性は消費を加速させてしまうとても注意が必要な引力だろう。
現状のシステムに乗りながらもその引力に負けずに、本当にささやかな、小さな風穴を開けられないかなと、密かに思っている。

今回、サイン本で入荷できた『毎日のことこと』高山なおみ(信陽堂)
すぐに売り切れたりはしないので、ゆっくりといいなと思う人の手に渡っていけばいいなと思います。いったんこの場のみでお伝えしておき、おりをみてネットショップにも上げていこうかなと思います。
(txt:ちばさとし)
ご案内的なこといろいろ
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